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中央テレビ編集 


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自治随想
政界変動の徴候と対応
 1991年11月5日第78代宮澤喜一内閣船出、2年後に自民党単独支配の最後となる「政界の一寸先は闇」の舵を取る。PKO(国連平和維持活動)協力法案と選挙制度改革を軸とした政治改革の実現、コメの市場開放問題など力仕事が目白押しのなか金丸信副総理就任、小沢幹事長時代の「自公民路線」VS「自社路線」の政界再編成構想・路線対立が芽生える。翌年5月、細川護熙(元参議・前熊本県知事)新党結成宣言、5月22日「日本新党党首」、直近の参院選で日本新党4議席第4党となる。ここに佐川急便事件が政界を揺るがせ、再編へと誘う。「一龍戦争」「一六戦争」「小沢グループ」「小渕グループ」「改革フォーラム21」(羽田派)と派内対立から政界再編方向へのうねりとしてさらに広がっていく。  
 自民党内流動化を睨んで社民連江田五月代表が「シリウス」(菅直人・仙谷由人ら27人)山花貞夫社会党委員長、市川雄-郎公明党書記長、民社党大内圭吾委員長等も関心を持つ。こうした動きと共に1993年改まり皇太子殿下婚儀の一方、政界の混迷と経済面でのバブル崩壊の影響が深刻となる。6月18日緊急上程された宮沢内閣不信任案可決、21日新党さきがけ(武村正義氏ら10人)、22日自民党を離党した衆院36人・参院8人が新生党結成し、「新しい政治をつくるための連絡協議会」が結成される。総選挙公示後7月7~9日東京サミット(先進国首脳会議)でのクリントン米大統領の「日本の政治も変化の時代を迎えている」とのスピーチが注目される。18日投票率は67・26%と史上最低、一議席プラスの自民党は善戦と見て粘り腰を見せるが4日後に退陣表明、連立工作の進行する中で、政・労界を跨ぐ接点の模索、後藤田正治副総理の担ぎ出しの動きも本人固辞で残念な結果となる。  
 自民党一党支配は新党さきがけの結成で事実上昭和30年(1955)結党(中央大駿河台講堂)以来38年間の幕を引いたが、この一連の政変劇の最大の特徴は政治改革路線に権力闘争が絡んだことと言える。政治改革を巡る取組の違いや小沢対反小沢の抗争などが、米ソ冷戦構造の崩壊に象徴される国際政治の潮流や、行き詰まった戦後政治・社会システムの再構築などの歴史的対応を疎かにしたとする指摘もある。しかしその実態は政治改革関連法案の対立ではなく、金丸事件の後に起こった経世会の内紛の反射であって、自民党には迷惑な話だとする政治家もいた。この間の地方六団体私たちは、物凄い政変、抗争劇の中で落ち着いた地方政治・行政を巡る中央地方政府関係を論ずる機会も少なく、翻弄されながら団体としてまた各自治体としての要請・要望を繰り返す状況であった回想ばかりが印象に残る。

期待と現実
 第79代細川護熙内閣(1993年8月6日)の発足は新時代到来への期待から発足直後内閣支持率75%、不支持率12・7%の驚異的数字となり、与党側は政治改革政権と胸を張り、野党側は非自民の寄木細工政権、各政策を巡る「数合わせの論理」と揶揄される。連立政権の政策決定・国会運営を支える新たな仕組みづくりは、各党の書記長・代表幹事で構成する「各派代表者会議」、連立政権の最高意思決定機関は「各党首も入った首脳会議」、政府と各党との連絡機関として「政府与党首脳会議」と「政府与党連絡会議」を置き代表者会議の下に「幹事会」を設けて国会運営と政策の調整を担当するとした。この政権運営の形式的システム(代表者会議)は、経験豊富な小沢一郎を軸に公明党の市川雄一、民社の米沢隆を中心に「政権の二重構造」と言われる。われわれ地方自治体はじめ各方面からの


陳情・要請活動も、何時しかこうした経由を何度か経験したが、何時しか政権内の軋みも生じ始める。先ず与党第1党の社会党では山花委員長から村山委員長に交代し、その村山委員長の強い意向により自民党との太いパイプを持つ野坂浩賢を委員長に据えた。余談であるがこの十カ月後に成立した村山内閣の野坂旧建設大臣から「郷土づくり大賞」を我が小松島市の国鉄跡地再開発に授けられたことを付記しておく。  
 国会運営上、重きをなすのは首相官邸の司令塔の存在と国会対策の妙であると代議士秘書時代に学んだ。「国対政治の打破」のために国対委員長を置かず細かな問題まで7党すべてが集まって「ノロノロ運転」で決めていくやり方は「何も決められない政治」と批判される。また外交上も大きな問題、関税及び貿易に関する一般協定(ガット)の新多角的貿易協定(ウルグアイ・ランド)を巡るコメ市場開放問題だ。「コメは一粒たりとも輸入しない」を国是としていた日本だが、細川首相は「将来の国益を考えて、私の責任で決断した」とガットに合意、「農業維新の国内対策と思い切った農業再編のビジョンに取り込む」とした。対して農村を伝統的に地盤とする社会党、農業を主幹産業とする日本社会、特に私の郷土徳島など地方・地域で大いなる不満が起こる。政治改革四法案も揉めに揉め小選挙区制、比例代表並立制などが成立し、ここに長く続いた中選挙区制度が終わった瞬間でもあった。更に細川首相の退陣劇は、政権復帰のチャンスと見た自民党から鹿野道彦・北川正恭(後の三重県知事)ら5人が自民党離党し「新党・みらい」結成など各党各派の動きにも繋がる。2月3日午前零時首相官邸で政府与党首脳会議開催、税率3%の消費税に代わる税率7%の「国民福祉税」創設を首相から提案され、村山社会党委員長、大内民社党委員長、さきがけ武村党首らが反対するも、それらを振り切って記者会見に向かい、7%の税率根拠について「様々な観点から総合的に判断。福祉に関わる金額は正確にはじいていない。言わば腰だめの数字だが、大体この程度の財政需要があり、どうしても必要だ」と述べ幕引きとなる。こうして55年体制以来一貫して政権を担ってきた自民党一党支配から政権交代を実現した細川政権は、僅か8カ月で終止符を打つが、その歴史的な評価は消えることはない。  
 1994年4月~6月の羽田孜内閣で、国民は後継首班選びの混迷と超短命内閣を経験する。細川退陣2週間後の25日衆院本会議場での首相指名選挙では、羽田孜274、河野洋平207、不破哲三35、無効6票となり、その直後に「新首相を支える強力な統一会派」を作ろうとする動きに、村山社会党委員長が「名称を変えた新会派をつくるのは連立与党間の信義に反する」として連立離反を宣言、瞬く間に与党議員が187人に激減、「少数与党内閣」となる。80代内閣総理大臣羽田氏は名を受けたが統一会派「改新」騒動の煽りで組閣がずれ込み羽田孜一人が全ての閣僚を兼務する異常さとなる。何とか28日組閣「新生・公明連立内閣」。羽田内閣の課題は94年度予算、小選挙区制導入に伴う区割り法案制定、税制改革、7月のナポリ・サミットなど難題目白押し、加えて「少数連立与党・自民党・社会党&さきがけ」と政界の三極化、延いては倒閣運動へと舞台が移ろう予見され、その時のキャスチング・ボートは社会党であり村山委員長だという認識に繋がる。23日参院本会議で94年度予算成立、これを見て自民党が羽田内閣不信任案を土井議長に提出する。この前後に小沢サイドはポスト羽田に海部元首相を、自民党サイドは禁じ手と思われた村山社会党委員長を担ぎ出す。29日の首相指名選挙は決選投票にもつれ込み、衆院・参院共に村山氏指名で決着。何とも早、政治の舞台には時として想像もできない主役が登場する。これは歴史に必然か、それとも政治家の恨み辛みが渦巻いた権力闘争だったのか、複雑怪奇な思いが拭い切れず、大学同窓の先輩後輩であり、「辞達して後やむ、弁論・討論道」に精進した世代同士の私たちは深い想いに浸ったものだ。

(徳島文理大学総合政策学研究科元教授 西川 政善)